週報 2021年03月06日

技術

Googleに騙されてはいけない:FLoCは邪悪なアイデアである | P2Pとかその辺のお話R

サードパーティークッキー禁止の代わりにGoogleが新たに導入しようとしているユーザー追跡技術であるコホートの連合学習(Federated Learning of Cohorts; FLoC)は邪悪なものだ、との電子フロンティア財団による警告。

まず、プライバシーへの新たな脅威として2つが挙げられている。1つめの脅威はフィンガープリンティングの新たな材料となる点。FLoCは、個人ではなく数千人規模のある集団の中にユーザーがいるという情報を、ブラウザの履歴から算定してWebサイト側に提供するというモデルであるが、この集団の情報とそれ以外の情報を組み合わせれば、個人の特定が今までよりも簡単になるのではないかとの懸念があるという。もう1つはクロス・コンテクスト暴露。例えば、医療情報Webサイトに対して情報提供するならば、自身の健康情報を提供は必要(納得可能)でも、政治的立場の情報は不要なはずである。しかし、FLoCの集団識別情報は個人のあらゆる属性に及ぶブラウザの履歴の要約であるから、このような用途に沿った情報提供を行うことができず、どんな場合も全ての情報を提供する羽目になってしまう。

更に、プライバシー以外にも問題を惹き起こす。ターゲット広告を行う行為は、人間を分類してそれぞれに別個のものを提供することであるから、本質的に差別を行うことである。これが機械学習により行われることで今までも様々な問題が発生してきたが、FLoCの場合はGoogleですら分類を制禦できない。この問題に対し、機械的な分類が社会的に問題あるものとなっていないかを監視するシステムをGoogleは提案しているが、これは「オーウェル的であり、シシュポス的でもある」。

以上が要約。プライバシー侵害に対するグーグルの悪あがきといった印象ではあるが、果たしてこれがユーザーに受け入れられる余地があるのかが疑問である。ユーザーから見れば自分の計算資源をよくわからない計算に提供させられるだけであって、ターゲット広告を進んで求めている場合(そんな人がどれほどいるのだろう?)を除けば利が無いように見える。そもそも、Google Chrome以外のブラウザがこんなものを実装するのだろうか。Firefoxは当然として、MicrosoftやAppleもGoogleと違い広告に依存していないため、これに乗る必要性は薄いのではないか。

Web広告について、以前読んで納得させられたものがある。藤村厚夫氏による大手広告主の予算凍結事件が突きつけるもの。メディアが生み出す文脈的価値とは何か?という記事の

これが有名な「枠から人へ」というテーゼの中核にある思想だ。
2008年に書かれたという時期的な理由もあるが、ここで最も軽んじられているのは「どのようなメディア」に広告を掲出するかという点、すなわち、媒体価値そのものだった。

狙う消費者がそこにいるのなら、どんなメディアでリーチしても良いではないか、あとはお値段次第だという立論について、筆者は、「メディアの価値を追いつめる」と批判した(拙稿「だれがメディアの価値を追いつめているのか」)。この種の思考がまさに極まったところで、昨年来、私たちが直面するメディアと広告をめぐるモラルハザードが露呈したのだと考えるべきだ。

という部分だ。ターゲティング広告技術の結果、広告の掲載媒体の質や合法性が問われなくなり、いかがでしたかブログでも嘘ニュースでも漫画村でも、とにかく人を集めればお金が稼げるようになった。また掲載媒体の側も掲載する広告を精査することができなくなり、気象庁のサイトに違法な商品が掲載されるようなことになる。インターネットの全ての悪をターゲティング広告に押しつけている嫌いがあることは自覚するが、それでもやはりターゲティング広告は将来的になくなるほうが良いのではないかと思うのである。

「ユーザーエンゲージメント」は「中毒」の符牒である “User Engagement” Is Code for “Addiction” | by Craig the Computer Guy | The Startup | Feb, 2021 | Medium

ソーシャルメディアは「ユーザーエンゲージメント」を得られるように設計されているが、それは中毒を起こすような設計に他ならないという話。ここでは人をソーシャルメディア中毒にさせる3つの原則(Web UIデザイン選択肢における悪の三つ組)が挙げられている。すなわち:

  • 即時性(immediacy):投稿に「○時○分」ではなく「○分前」と書かれることによって、時を同じくしている錯覚を与えられる
  • 持続性(perpetuation):無限スクロールによって延々とソーシャルメディアを見てしまう
  • 中毒性(addiction):「いいね」や「リツイート」のような「インターネット得点」は送るときも受け取るときもドーパミンを発生させるため、それに中毒になってしまう 中でも最も危険な物として扱われているのが最後の「インターネット得点」である。これは、一見誰でも投票できる民主主義的なシステムに見えるものの、得点を集めるような意見ばかりをユーザーに見せることに帰結し、「皆が○○と思っているぞ。なぜ私はそう思わないのだ? 何かが間違っているに違いない」という自問を生んでしまうという。「通常」でありたいという欲求を刺激し、それが政治的な過激化につながるという。フェイスブックが同調圧力を収益化する方法を発明し、他がそれに続いているのだ、と筆者は言う。

まあこうしてみると良くあるフィルターバブル・エコーチェンバー批判という趣である。少し面白かったのは例としてRedditが挙げられていること。確かにRedditにもカルマ(業)といぅ得点システムがあるのだけど、「4chanより少し行儀の良い英語圏の匿名掲示板」くらいの印象だったので、あまりSNS的なものと思っていなかった。考えてみれば、人気の投稿が上に来るシステムは、はてなブックマークやYahooニュース、YouTubeのコメント欄みたいなもので、承認欲求を刺激するものである。そして、ツイッターのように「よくリツイートされる投稿は多くの人の目に留まるが、全て同様に流れていく」仕組みに比べると、このような人気の投稿が上に表示され続けるシステムはより主流の意見を際立たせやすいように思われる(ので本稿で例としてRedditが扱われているのにも納得である)。「Redditと同様のシステムをFacebookは何年も前からとってきた」旨書かれているが、Facebookもこういう順位順に表示される仕組みなのだろうか。Facebookは使っていないのでよくわかっていない。

この記事はSNSをやめろと言っているけれど、いいねボタンを押すことで押す方も押される方も快楽を得られるというならば、それはある意味では理想的なシステムなのではないかと思わないでもない。SNSに時間を吸われてしまって他のことができないというのは分かりやすい問題であるが、「他のことをするよりもSNSで快楽を得ることのほうがいいじゃないか」という反論は可能であると思う。本稿は『スタートレック』に出てくるらしいドーパミンを出させるゲームをSNSの譬えに挙げているが、この映画を見たことのない私が思い浮かべるのは『神様のメモ帳』の次の台詞だ:

「あのさあ。人間の脳味噌ん中に報酬系神経系ってのがあるんだよ。A10神経系ってやつ。美味い飯を食ったりとか人から誉めてもらったりとか欲しいものを買ったりとかすると、伝達物質が合成されてシグナルが伝わって俺らは幸せを感じるわけ。逆にさあ、統失とか鬱なんかだとドパミン機能が低下しててさあ。要するに、いくら頑張って幸せなことしても脳味噌んなかでちゃんとモノが合成されないと幸せ感じないわけ。だから、俺らはA10系を刺激するために生きてるんだよ。わかる?」

杉井光『神様のメモ帳』(電撃文庫)76ページより

薬物中毒者の言なのであるが、これにどう返すかは恐らく個人の人生観に依るだろう。個人的な観点からの「SNSやめろ」は本質的にそういうものなのではないか?

もちろん社会的な害を挙げるなら別だ。SNSが社会の分断を加速させて暴力的な紛争に至るというような因果関係が示されたならば、薬物や賭博が受けているような規制をされることもあるだろう。その先は個人主義者と全体主義者の闘争である。

システム過負荷でなぜATMにトラブルが? みずほ銀システム障害、運用面の課題あらわに - ITmedia NEWS

【やじうまPC Watch】翻訳のロゼッタが全社員に”英語禁止令” - PC Watch

社会

「やさしい日本語」は在留外国人にとって「やさしい」のか?|第3回 「やさしい日本語」の多義語|永田高志 | 未草

「やさしい日本語」として基礎語彙(主に和語)の使用が推奨されるけれど、基礎語彙というのは一般に多義語化しているものであり、それは外国人に対してやさしいのかという問い。第二回のほうでPlain Englishの「describeではなくtellを」という例が示されているが、tellよりもdescribeのほうがわかりやすいのではと思えるので、なるほどと思う。英語の場合は高級な語彙はロマンス語系の由来を持っていて、むしろそちらのほうが(個人的には)語源が推測しやすい節があるのだが、同じ事を日本語で考えると漢字の問題が出てきてしまうのが難しいところだなと。

文章を書くことを教えるのはむずかしい - 教育課程も混乱している? - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

論理的で読みやすい文章を書くための教育が、海外では行われているのに日本では行われていない、という嘆きはよくあるが、実は学習指導要領には示されている。しかし実際の現場では、そのような教育の難しさと生活綴方(せいかつつづりかた)の影響とによって、学習指導要領は曲解され本来的な教育は行われていない……という話。

カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ | 読書 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

何が事実や真実で、何がそうでないか、ボーダーラインがあるかどうかはわかりません。ただ私自身は近年、科学の世界で行われているやり方が非常にすばらしいと感じるようになりました。もちろん科学の世界が完璧なわけではありませんが、基本的には何かをめぐって論争が起きた時に、最終的にデータやエビデンスによって事実が判明し、間違っていた側もそれを認めて「では、次の議論へ移ろう」となるようです。科学の世界では、人々はそうやって議論し、意見を持ったり、意見を諦めたりしています。

しかし、科学以外の世界では何か異常が起きている。これは私たちのような感情を通してコミュニケーションをする創造的な仕事をする人間にも責任の一端があるかもしれませんが、私たちは「大事なのは事実や真実ではなく、何を感じるかだ」という考えを浸透させすぎたようです。

アメリカでは国民の約半数が、トランプが先の大統領選で勝ったと感じるからそう信じる人が出てくる、という異例の事態が起きています。私たちは、あまりに「自分の心が感じていることが重要だ」と強調しすぎたがために、エビデンスを軽視するようになったのではないでしょうか。

「大事なのは事実や真実ではなく、何を感じるかだ」「自分の心が感じていることが重要だ」という姿勢は、日本では「お気持ち」なんて皮肉られている。が、欧米の特に左派運動では「マイクロアグレッション」なる概念があるなど、こういった風潮が強いようである(文中で「私たちは……強調しすぎた」とあるのはそういう趣旨であろう)。「エビデンスを重視せよ」というのは「知的ダークウェブ」派が言っていることのはずで、この点は米国の「リベラル」とオルタナ右翼の衝突の最前線なのだろう。広く言えば、そもそも社会構築主義がある種反科学的な趣を持っている(科学の特権性を否定する)という主張も読んだことがあり(『概説 現代の哲学・思想』(ミネルヴァ書房)の第14章「ジェンダー論」(根村直美))、このあたりは政治・思想バトルの争点として本質的でとても面白そうだと思っている。

その他

「ハルウララの有馬記念」という限りなく卑怯な負けイベント|ストーム叉焼|note

私もハルウララさんのストーリーを読んで好きになってしまった口なのだが、「卑怯」とは思わなかった。「エンドコンテンツがここに示されるのか。すごいなぁ。クリアしたいけど……厳しいよな」という具合の驚き、感心、諦めであった。

建築好きなら死ぬまでに見ておきたい建築100(日本国内編)



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